こころに残る風景や音楽♪


ありふれた日々の中から ふと こころに残る風景写真と その想いを書き綴っています。
by umikaze1023
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二宮忠八の玉虫型飛行器

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二宮 忠八(にのみや ちゅうはち、慶応2年6月9日(1866年7月20日)- 昭和11年(1936年)4月8日)は明治時代の航空機研究者。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)出身。陸軍従軍中の1889年「飛行器」を考案。翌年にゴム動力による「模型飛行器」を製作、軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二度行うも理解されず、以後独自に人間が乗ることのできる実機の開発を目指したが完成には至らなかった。なお「飛行器」とは忠八本人の命名による[注 1]。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 生い立ち
1.2 飛行への着想
1.3 遅かった評価
2 世界航空機史上における位置付け
3 近年の見解
4 その他
5 脚注
6 出典
7 関連小説等
8 関連項目
9 外部リンク


経歴 [編集]
生い立ち [編集]
八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はきた。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業に失敗し、また2人の兄による放蕩、さらに父幸蔵が忠八の12歳の時に若くして亡くなってしまったために、家は困窮した。このため忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したというが、この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった。

飛行への着想 [編集]
明治20年(1887年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。そうしたある日(1889年11月のことという)、忠八は野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、そのカラスが羽ばたいていないのに気付く。そして忠八は、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛ぶことができるのではないかと考えたのである(固定翼の着想)。

それを基に忠八は、「模型飛行器」を作成。これがいわゆる「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。明治24年(1891年)4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36mを飛行させた。2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。これは無尾翼の複葉機で、下の翼(上の翼に比べると小さい)は可動であり操縦翼面として働く設計だった[1]。烏型と同様に四枚羽の推進式プロペラを機尾に備えていたが、動力源については未解決であった。日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での「飛行器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。長岡は「戦時中である」という理由であった。また大島には戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。軍は飛行機開発に乗り気ではないと感じた忠八は軍を退役し、まずは飛行機製作の資金を作ってそれから独力で研究することを選んだ。

大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて明治39年(1906年)に支社長にまで昇進する。この時期は飛行器の開発の資金をまかなうことはできず、ほかにスポンサーも現れなかったため開発は停滞した。この間、明治36年(1903年)12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行器への情熱を持ち続けていた。

支社長就任後ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を再開する。飛行器の動力については、従軍当時に新聞記事でオートバイのガソリンエンジンを知ってから、これを利用できないかと考えていた忠八は、明治41年(1908年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、忠八は12馬力のエンジン(偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」と同じ出力である)を自作する構想を立てた。そんな矢先にライト兄弟の飛行機の存在を知るところとなる。忠八は、動力源以外完成していた飛行器の開発を取りやめてしまい、薬の製造の仕事にうちこむようになると共に、明治42年(1909年)にマルニを創業する。この時の忠八の製作していた機体は重量が重過ぎるため、完成しても飛べたかは長らく疑問視されていたものの、理論的には正しい事は現在では認められている。

遅かった評価 [編集]
大正8年(1919年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)白川義則と懇談した際に、忠八は以前却下された飛行機の上申があったことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいものであることがわかった。

こうしてようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰し、その後も数々の表彰を受けた。大正14年(1925年)9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、大正15年(1926年)5月、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章をたまい、昭和2年(1927年)、勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載せられた。既に陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。

忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になっている。

晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した。

世界航空機史上における位置付け [編集]
当時欧米で有人飛行を目指す流れは、

模型飛行機の実験を行い、それを人が乗れる大きさに拡大したものを製作する
グライダーによる滑空実験を行い、操縦技術を確立してからグライダーに動力を取り付ける
の2つに大別され、ライト兄弟はこの両方の研究成果を受け継ぎつつ後者の道を選んだ。兄弟は3000回以上の滑空と風洞をはじめとする科学的で綿密な実験結果に基づいて操縦者の意思で飛行する最初の飛行機を制作した。一方、忠八の研究は91年、愛媛県八幡浜市において自筆の設計図を元に現実に実物大の飛行器復元模型が制作され、有人動力飛行実験に成功した事で彼の飛行理論の正しさは証明されたものの、[2]。その研究の過程や計画が研究途上にある事で明確な位置付けがまだできない事、海外の研究者の着目が少ない事から客観的な視点が欠けている事にも留意する必要がある。

近年の見解 [編集]
日本では近年「日本の航空機の父」という評価が高まりつつあり、その先見性や独創性が一般に知られるに従ってメディアで取り上げられる事も多くなった。ライト兄弟の初飛行に先立ち動力付き有人飛行機を着想するも金銭的な手当てがつかなかった事で研究の進展が思うように進まず、有人飛行を断念する残念な結果となったが黎明期に活躍したパイオニアとしての功績と才能、興味深い様々な逸話、自省から神社を建てる人格等、決して世界的な発見や功績を挙げたわけではないものの、日本航空機史上へ名を刻むにふさわしい傑出した人物として認知されつつある。

一方で実際にはゴム動力の模型飛行機はフランスで1871年にすでに製作され、飛行しているにもかかわらず、「飛行機の真の発明者」「世界で最初に模型飛行機を製作」と報じる等、忠八の研究活動や航空史の流れを全く理解していない例が散見され(航空に関する年表も参照のこと)これを残念とする声や、評価の流れを一方的に中傷する動きなどがあり、情報や認識が錯綜した状態が続いている。また忠八の作った航空機は人力航空機であり、エンジン航空機とはかけ離れていることから過大評価されているとの意見も多い。二宮忠八の活動詳細の普及や安定した評価の形成にはまだ時間がかかると思われる。

その他 [編集]
忠八がカラスを見て飛行の原理を着想したのは、香川県まんのう町追上の樅ノ木峠であったとされる。その故事にちなみ、同地には1966年に二宮飛行公園が、1991年には二宮飛行神社が整備開設された。さらに2006年3月17日、「道の駅空の夢もみの木パーク」の隣接地に「二宮忠八飛行館」が開館した。玉虫形飛行器の複製模型をはじめとした再現模型や書簡などが展示されている。なお、同地への公共交通は平日のみ一日4本の旧仲南町町内巡回バスしかないため、訪問の際は注意が必要である。
忠八がライト兄弟の飛行機を知ったタイミングはしばしばその初飛行の直後であるかのように書かれるが、ライト兄弟の初飛行はアメリカ国内ですらほとんど報道されなかった。また、その後兄弟が(アイディアの盗用を恐れて)なかなか公開飛行を行わなかったため、広く知られるようになったのは1908~9年頃である(村岡正明『航空事始』(東京書籍、1992年)によれば、日本で初めて報じられたのは、雑誌『科学世界』の明治40年(1907年)11月号だという)。日本の新聞記事等からもこのことは裏付けられるため、実際に忠八がライト兄弟の飛行機を知ったのもその時期と考えるのが妥当である。鈴木真二の著書『飛行機物語』(中公新書、2003年)では、忠八がライト兄弟の飛行機を知ったのは1909年10月3日付の新聞(紙名は記載なし)であると記している。村岡正明は、1907年3月25日の「萬朝報」におけるアルベルト・サントス・デュモンの飛行記事によって、二宮が外国人の初飛行を知ったと推測している。
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by umikaze1023 | 2010-10-06 23:42 | その他 | Comments(0)
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